【うすくちエッセイ】


「母に捧げるバラッド ・ ちょっとは冷静編」



 母の死後4カ月の頃に書いた文章が、あまりに感情的で何が言いたいんだかチンプンカンプンなので、
タイトルを「母に捧げるバラッド・チンプン編」に変えておいた(なんのこっちゃ)。
 平成14年11月現在、母が亡くなってから約2年半が経過した。
「チンプン編」のまま放っておくのも読者さまに失礼なので、ちょっとは冷静に書き直そうと思う。

 母を亡くして、わかったことがいくつかある。

 ひとつは、自分の悲しみの感情というものが、
いかに雑然とした原因から湧き起こっているかということ。
お腹の底からあふれてくるような“悲しい”とか“淋しい”とかいう感情は、
じつに何本もの糸が絡み合って構成されているようだ。
その中に、母のことを「可哀想に」と思っている気持ちの存在を発見した。
「あんなに元気だったのに、急に死んでしまうなんて可哀想に」とか、
「まだまだ旅行に行ったりしたかったろうに、叶わなくて可哀想に」とか、
そんな思い。これ、じつに疑わしい。

 なぜなら、死んだ当人が可哀想かどうかなんて、私には知り得ないからだ。
これが、病気になってから死ぬまでの間に
「点滴ばっかり打ってしんどいだろうなぁ、可哀想に」とか、
「早く快復して旅行にでも行きたいだろう、可哀想に」とかいう思いなら、
まあ当人の思いを察していると言えるだろう。
しかし、死んでしまった以上、その人を「可哀想」と思うのはどうか。
自分としては、いかにも当人の立場に立った気になっているが、当人はもう死んでいるのである。
死後の人の立場に立つのは極めて困難……というか不可能だ。

 例え、自分の描く死後の世界の想定のもと、当人の立場に立ってみたとしよう。
例えば浄土真宗を信仰、またはイメージしている人なら「極楽浄土にいる想定」を、
また“丹波流”なら「死んだ本人の一番美しい頃の姿になって、
天上的清純さでむせかえるような素晴らしい天界に行く(……んだっけ?)という想定」をし、
そこでの当人の気持ちを考えるわけだ。

 どうだろう、まったくステキな世界(かどうかは知らんが)へ旅立てたわけだ。
悲しむより、むしろ共に喜んであげるべきだといっていいだろう。
もちろん特定の宗教観がなくとも、亡くなった当人を愛し尊敬しているならば、
「地獄(またはそのような辛苦に満ちた所)へ行ったに違いない」とか、
そんな事は思わないハズ。
とすれば、死んでしまった母は、ちーっとも“可哀想”じゃないのである。

 なのに何故、
お腹の底から「死んでしまった母が可哀想」などという感情が勝手に湧き起こってくるのか。

 結局、この感情の元となっているものは、
死んだ本人の気持ちを察しているわけでもなんでもなく、
自分の欲求が満たされなかった事への不満に起因しているのではないか。

 つまりそれは、
「もっと親孝行したかったのに何でいなくなったの」とか、
「もっといろんな話をしたかったのに出来なかった」とか、
そういう自分の充足されなかった欲求に対する無念さとまったく同列のものなのだ。
言うなれば、
「あんなに元気だったのに、急に死んでしまうなんて可哀想に」というのは
「あんなに元気だったのに、急に死んでしまうなんて予想もしていなかった私のショックがどんなに大きいか、
突然いなくなったこの淋しさ、この動揺をどうしたらいいの。ああ私って可哀想」の“可哀想”であり、
「まだまだ旅行に行ったりしたかったろうに、叶わなくて可哀想に」というのは
「まだまだ旅行に行ったりしたかったろう。そんな母の幸せそうな姿を見るだけで私の心は満たされたのに、
もうあの笑顔を見ることも叶わない私って可哀想」の“可哀想”なのである。

 相手を思っているつもりが、じつは相手を鏡にして自分を思っている。
よくあることだ。

 そう考えれば、
亡くなった“母を想う”気持ちだとか“母に対する”悲しみだと思っていたものが、
じつは自分の中だけの問題に過ぎないということに気付く。

 少しだけ、絡んでいた感情の糸がほどけた。
自分の問題ならば、自分の中でなんとか処理できるハズだ。
 ちょっと心がラクになった。

……というのが、「チンプン編」の中で書いた

------今、寂しいと感じているのは、母ではないのだ。
   寂しいのはすべて「私の思い」だけなのだ。------

という文章で言いたかった事なのだが。(長いってば!)

 もっと根本的なことだけれども、
そもそも相手を「可哀想」なんて思うのは、非常に失礼きわまりない態度である。
母はきっと、自分の人生を精一杯に生きたはずだ。
まだまだ夢や希望を持っていたけれど、
夢や希望は持つことそのものが大切なのであって、
それを達成しなかったから残念無念、というものではない。
自分に与えられた時間の中で、その気持ちを育みながら目一杯に生きれば、
それこそが素晴らしい人生なのだと思う。
だからそんな人生をちゃんと送ってきた人間を指し、その人が死んだからって、
な〜んにも知らないほかの人間が「可哀想」と言うのはけしからんことである。すんません(ペコリ)。

 湧き起こる感情には、必ず原因がある。
その原因は、自分の思っているものとは違う姿をしていることもある。
それがわかれば、自分の心が感情に翻弄されない。
それをわかるには、まず絡み合った感情の糸を一本ずつに分け、丁寧にほぐしてみる事が大切だ。
そうすれば、少しずつ自分を理解できると思う。

 母に対する感情の糸を丁寧にほぐしてみれば、
余分なものがたくさん絡みついていた事がわかった。
それらをゆっくりゆっくりはがし、残った太い糸を見つめてみれば、
そこには母に対する感謝の気持ちが溢れていた。

 この太い糸、ただ一本だけを大事に心にしまって、
この先の人生を歩いてゆきたい。

……なーんて、なんか大層に書いてしまいました、すんません(またペコリ)。

 母の死という経験を通して、
人生まだまだ若輩者の私がお勉強したこと、それは、
悲しみや淋しさというものは、決してすっかり消え去ることはないということ。
しかし、それが消えないという事に対して悲観し、また悲しみや淋しさの上塗りを繰り返していてはいけない。
 消えなくていい、付き合っていけばいいのだ。

 悲しみや淋しさという感情も、自分にとって邪魔なばかりではない。
よく見つめ直してみれば、
そこから教えられる何か大事な気持ちを含んでいるに違いない。
いつかその感情を、いい形で昇華させる術を見つけた時、
きっと自分の生き方が少しラクになるハズだ。

 だからそれまで、大切に持って歩いていこう。
 人生を重ねるということは、
そういう消せない感情を積み重ねていくことなのかも知れない。
悲しみや淋しさも、今、自分が生きている証なのだ。


それで、だ。
まだ「わかったこと」のひとつめしか書いてないではないか!
いかん、これではこっちもチンプンカンプンだ。こっちは「カンプン編」にしておこうか、
……って、そんな問題やないっ!
ちょっと長くなりすぎましたので、またの機会にパートUでも書きたいと思います。
え〜まだ続くのぉ〜?

(2002年11月)


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