●読書●

母がものすごく読書好きだった影響もあり、
幼い頃から本が大好きだった。
本ばっかり読んでいた。
私の読書遍歴と、その影響を少し振り返ってみたい。

本は本当に好きだったが、
中でもとくに“文学少女”だった時代がある。
それは、小学校に入学してから4年生までの期間。

近所に、「婦人会」なる団体がボランティアでやってくださっている、
子供図書館のような場所があった。

そこはそもそも、トラックが3台ほど入る車庫スペースなのだが、
その3方の壁際に、棚の上から下までビッシリと本が並べられていた。

毎週土曜日、当番のおばちゃんがシャッターを開け、
コンクリートの床にゴザを敷いて、
子供たちを迎えてくれる。
私たちはそこを「文庫」と呼んでいた。

私は4年間、毎週かかさず文庫に通い続け、
一回に3冊までという規定通りにしっかり3冊借りて帰り、
数百冊に及ぶであろう童話や児童文学を読みあさった。
たぶん、文庫にあった本すべてを読んだ。

土曜日から日曜日にかけて、
私の頭の中は童話の世界でいっぱいに満たされる。

普段はあまり気にしていない風鈴の音が、
想像の世界の中でチリリンと涼しげな音を響かせる。
童話の主人公がにわかに動き出す。
チリリン、チリリンと鳴る音に誘われて、私の心は窓から空へ飛んでいく。
遠い草原へ。葉っぱの下へ。遙か昔の山奥へ。
鏡の中へ。未来の氷河の内部へ。風の音が聞こえる川面へ。
机の引き出しの中へ。商店街の突き当たりの壁の向こうへ。
自由な旅に出る。

ピーターラビットのお母さんが食事の支度をするのと同時に、
私は台所へ行って母と一緒に餃子を包む。
兄たちが帰ってきて、餃子包み隊の輪がひとまわり大きくなる。
土曜日は父も夕方には帰宅し、「おっ! 今日は餃子、餃子、いいねえ〜」など言いながら、
ビールの準備をする。

ピーターラビットが木の切り株のテーブルで食事を始める時、
餃子の焼ける香ばしい匂いが部屋を満たす。
当時の私は今と正反対で、食いしん坊ではまったくなかったので、
餃子を焼くことにひたすら興味を持っていた。
「次は私に焼かして〜」

食卓には、母が焼いたキツネ色の餃子と、
私が焼いたガマンの足らない白っぽい餃子がズラリと並んだ。
ピーターラビットよりはかなりお利口な態度で、
私は自家製のひとくち餃子を7個食べた。

こんなふうに、私の日々は童話とともに過ぎていった。

そんな私のため、両親もせっせと本を選んでくれた。
外出していた両親がウンウン言いながら帰ってきたので、
何事かと玄関へ迎えに出ると、
古本市で全巻揃いを見つけたから、コレおみやげと、
『児童文学全集』なるものを必死に担いで持って帰ってくれたこともあった。

ハードカバーの、ものすごくデカくて重い本が10冊ほど、
ババァーンと積み上げられていた。
本を読むための環境に恵まれて育ったことは、私にとってこの上ない幸福である。

母の影響は、本当に大きい。
この頃の母は、推理小説を好んで読んでいた。
いつも多忙な母だったが、少しでも時間があると本を広げていた。
そんなに魅力があるのかと、私もオススメの本を読んでみた。
見事にハマッた。

家で母と二人、並んで推理小説を読んでは、
トリックの出来不出来を批評しあった。

「あ、りろちゃん○○シリーズ読んでんの? この作家て前置きが長すぎるやろー」
「ほんまやわ。解決する頃には誰が誰やったか忘れるなあ」

「なーなーお母ちゃん、このトリックってぜったい無理があるやんなぁ?」
「それやろ。それ、私もおかしい思うたえ」

この頃、高校生だった兄は、
そんな我々のために、図書館で推理小説を借りてきてくれた。
家族間で推理小説がグルグル回っていた。

小学校5年の時、京都市少年合唱団というところに入り、
土曜日は合唱の練習日になったので、
この「文庫」には別れを告げることとなった。

そのかわり、学校の図書館にあった伝記モノを端から読みあさった。
伝記はハマる。
いろんな人に、いろんな人生がある。
人間の生き様と、その多様性。
予想のつかない軌跡と、すべての要因が未来へと繋がる事実。
人生ほど面白いものはないと、この時、本当に思った。

中学生になり、筒井康隆氏のエッセイを読んで、衝撃を受けた。
まとまったストーリーでなく、
感動の結末や、深い教訓など何も用意されていない、
エッセイという新たな形。

童話、児童文学、伝記、
どれにもない魅力があった。
ナマの人間性が、そこにはあった。
エッセイの魅力に目覚めた瞬間だった。

ちなみに、初めて読んだ筒井氏のエッセイは
『男たちの描いた絵』。
人生で最初に出合うエッセイとしては、チト珍味だったかも知れぬ。

中学2年から、私の苦悩が始まった。
突如、私に襲いかかってきた理由のハッキリしない虚無感に、
私はいったいどうやって立ち向かっていけばいいのか、
毎日そればかり考える日々。

生きるとは何だ。死とは何だ。
存在とは何だ。世界とは何だ。
自分とは。他人とは。
生命とは。心とは。
疑問符が嵐のように、四六時中、全身を駆けめぐった。

そんな中で、「哲学」という分野に出合う。
中学生の友人との会話に、まったく答えも共感も見出せず失望していた私は、
世の哲学者が語ってくれる独自の考え方にたまらなく興味を惹かれた。
面白い!
世の中にこんなに面白いものがあるのか。
自分というのもを考えること、生きることや死ぬことを深く見つめること、
それほど面白いものが、他にあろうか。

大嫌いだった歴史の教科書を開き、
哲学者の部分だけを何度も何度も読み返した。
「我思う。ゆえに我あり」
「無知の知」
……
宝石のカケラが、ほんの数粒だけキラめいていた。
この言葉たちの意味するところをもっと知りたい。
もっとたくさんのキラめく宝石を知りたい。

家に帰って、家族に尋ねた。
哲学的・論理的な思考をする母と兄は、それぞれの解釈をていねいに話してくれた。
感覚的・情緒的な思考の父は、そんな私たちの様子をいつもニコニコと見守っていた。
家でのそんな会話が、私は面白くて仕方なかった。

学校の授業で十分に居眠り、授業が終わると友達に見向きもせずトットと家へ帰った。
そして、家族みんなで煎りたてのコーヒーを飲みながら、
人生について深夜まで大いに盛り上がった。
近所迷惑なぐらい、にぎやかな我が家だった。

たぶん本当は、まわりの中学生たちだって、
もっと「生きる」ことについて友達同士で話したりしたかったのかもしれない。
でもそんな事を口にするのはなんだか格好悪い。
マジメに考えてるって事を知られたら、ダサいウザいと叩かれる。
みんなそう思ってたのかもしれないなぁなんて、今になって思う。

高校の図書館では、さまざまな哲学者の伝記を借りては読んだ。
この時、たくさんの重い言葉に出合い、
それらは、今後の人生を考える助けになった。

しかし、西洋の哲学者の論理には、
どうしても絶対的な存在としての「神」が登場する。
それが、私にはどうも解せなかった。
どの哲学者の本を読んでも、どうしても引っかかる。

そんな中、唯一、絶対的な存在を出してこない人がいた。
ゴータマ・シッダルタである。
仏教という宗教的なことはよくわからないけれども、
このゴータマ・シッダルタという人の考え方をじっくり学んでみようと思った。

「日本で仏教を学ぶならココ!」と言われる龍谷大学が、
なんと近所にあった。
そのうえ、運良く、いや運だけで入学できてしまった。
読解力を問われる現代国語の入試問題で、たぶん満点をとり、
そのおかげで合格できたのだと思う。

なのに私は、もっとしっかり学ぶべきだったな。
今さら、おおいに反省している。

ひとつ、私の読書経験から、とても重要だと感じたことがある。
それは、たくさんの本を読むべきだということ。
童話にしても、哲学書にしても、
何冊も読んだからこそ、その中味を自分の中で相対化できた。

あまりにも世界に入り込みすぎると、戻ってこられなくなる。
ミヒャエル・エンデは、童話には微量の毒があると言った。
毒が全身に回ってしまわぬうち、帰る場所をしっかり認識せねばならない。

悩んでいる時、一冊の本が心を救ってくれることがある。
こう言うといかにもキレイな響きだけれど、
これはヘタすると危ない。
何も周りを見ないまま、ひとつのものを盲信するという罠にかかることがある。

哲学書は、できるだけ多くの種類を読むべきだ。
誰かの考えに共感し、たとえ深く納得しても、
必ずその対極にある考え方も知らなければならない。

素晴らしいメッセージを贈ってくれる人は多くいる。
たまたま最初に出会った誰かに飛びついて、
ひとりだけを盲信してはいけない。
気づかぬうちに泥の沼へ引き込まれるような目に遭わないために。

陶酔と客観を切り替えるテクニックを、幼い頃から磨いておくべきだと思う。
だから気をつけたい。
読書にはある程度バラエティ持たせること。
そして、ただ読むだけでなく、人と会話すること。
議論を交わすこと。
もしも読書に何らかの弊害があるとすれば、そうすることで回避できるだろう。


最近、忙しさにかまけて、まったく本を読んでいない。

とくに私は、
一字一句見逃さないように、句読点の位置まで意識して読書するタチなので、
一冊の本でもなっかなか読み終えられない。
もっと読書タイムが欲しい。切実に思う。


本を読まない自分の人生なんて、今さら想像できない。
すべての読書が、今の人生におおいに役立っている。
受験勉強なんかちっとも頑張らなかったけども、今の生活にそんなに不自由はなく、
その時間を使って読んだ数々の本が、今の生活の端々にまで影響を及ぼしている。

学校や塾で大量の時間を費やしている、たった五種類の暗記訓練が、
生きるうえで大切なものをどれだけ教えてくれるだろう。
何冊もの本と、それらを読んで交わし合う会話や議論が、
いったい何種類の学問を私に与えてくれただろう。

模擬試験の偏差値など、ろくでもない数値だったけれど、
それほどの大バカにはならなかったと思う。
人間、小バカぐらいでちょうどいい。

学歴社会を盲信するような、本物の大バカにならずに済んだだけ、
少しは智慧が身に付いていたんだと思う。
人間、知識だけあっても智慧がなけりゃまったく使えない。

学校でやる、いわゆる「勉強」を否定しているのではない。
それはそれで頑張ればいいと思う。役に立つことだって、ちゃんとある。

ただ、「勉強」イコール「受験勉強」みたいな、
太平洋の真ん中で海水をコップに一杯だけすくって地球の水分をすべて支配したと思いこむみたいな、
そんな勘違いヤロウには、どうかならないでほしいと願う。
勉強がどんなに面白いことか、子供たちにはもっと知ってほしいと願う。

どんな教科書より、一冊の童話を。
どんな参考書より、たくさんの哲学書を。
高い点数より、想像のふくらませ方を。
偏差値より、人の生き死にを真剣に考える機会を。

いろんな生き方を。
いろんな愛の形を。
いろんな人生の捉え方を。
もっと知りたい。知ってほしい。
そして、認めてほしい。
尊重してほしい。

だから、本が大好きな私は言いたい。
本を、読もう。

2005.3.8.





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