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創作への本能的情熱

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● “書”シリーズ その1 ●


2003年の年末から、ミニチュアの「書のシリーズ」を作り始めました。
ミニ掛け軸や、ミニ書&粘土の色紙、ミニ書額などです。

普通、掛け軸というと、
中国に伝わるいにしえの漢文や、昔の日本人が残した名言などを書くものですが、
私の作品は現代文を書いています。
そもそも、私の言葉が書きたくて作ったものなんです。

そして、すべての書は直筆です。
ナマの人間のメッセージでありたいから、機械を使いたくなかったんです。
書家がそれはそれは精神を集中させて、
一枚ずつ書いてくださいました。

見る人の心の隙間にスッと入り込めるよう、
できる限り小さい文字をお願いしました。
“「書家の作品」としてちゃんと成り立つ限界”の小ささです。


それぞれの言葉に説明をつけるなんて、まったくヤボな行為なんですが、
あえて私の想いをここに書いてみたいと思います。

          




    「体の奥から笑う」











心の位置がどのへんなのか
いつもそれが気掛かりで
せっせと頭を働かせてみるけれど
どこからか押し上げられてくる感情の正体は
さっきから続いてる頭痛なのか
それとも この胸の痛みなのか

幼い頃は
心はお腹の奥にあると思ってた
いつからか
頭痛の起こる場所にそれは移って
考え考えて 巡り巡って
感情という液体をドロドロと脳天から漏れさせた



サラリと
たおやかに生きたいと
脳天を通り抜けた言葉は美しく響く
そう それはどこまでも綺麗で
オマエはカッコ悪くないと教えてくれる

美しく ただ美しく流れゆく水を
アナタが両手ですくってみれば
それは いつぞやのドロドロ漏れた苦い水と
同じ匂いを放つ 物わかりのいい人工飲料

岩にぶつかって跳ね返って
水しぶきがアナタの顔にまで飛び散って
その一滴が唇の端へと伝った時
その舌を潤おすことができたなら
アナタさえもが気付かなくても
わずかに潤いが届いたなら

心の位置をもう一度
本気になって探し当てよう
たとえそれがどこか判らなくても
私の体の一番奥に
私の体の一番大事な場所に
その熱を感じられればそれでいい

体の奥から
揮発性の無性に高い感情をダイレクトに吐いて
いつかのように思いっきり笑いたい

体の奥から笑いたい


  幅  … 約 1センチ (軸を除く)

  高さ … 約 7センチ

    2003年12月




心の底から笑う、とよく言いますが、
いったいどこが「心の底」で、
自分は本当に底の底の底から笑っているのか、
そのことがとても気掛かりです。

たぶん、これを考えているという時点で、
すでにもう「底」ではないのでしょう。

そういえば昔、
そうあれは20歳を少し過ぎた頃だったでしょうか、
こんな詞(歌詞です)を書きました。

昔の詩や詞を読むと恥ずかしくて赤面してしまうのですが、
恥さらしついでにヤケッパチで載せてしまいます。

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「無条件の笑顔」


いつからだろう
笑顔にレベルをつけたのは
想い出の数が増えるほどに
消えゆく無邪気さ

頬ほてらせて 今日の出来事 残らず話した
いつしか隠すことも 上手くなっていた

閉ざしたドアばかりを飾りたてては
この胸の真ん中が 寒い

いっしょに走るだけで 笑顔交わせた
近所という理由だけで初恋になった
あんなふうに すなおに心 開きあえたら
出会う人すべてに 同じほほえみ あげられたら
無条件の笑顔を



信じ続けた 前を見て
正しい道を
履歴書をスーツに刻み込んで
胸をはって歩いてきた

夢に描いた毎日に はまってみれば
なつかしさばかりに焦がれるのは なぜ

築き上げた虚像が崩れだして
この胸の真ん中が 寒い

目と目が合っただけで 笑顔交わせた
肩書きなかった頃が 夕暮れをさまよう
もう一度 すなおに心 開きあえたら
出会う人すべてに 同じほほえみ あげられたら
無条件の笑顔を


Riro

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脳みそで条件をつけてしまう自分に嫌気がさし、
ふと気付くと胸の真ん中あたりを風が吹き抜けて、
人間としての熱が冷やされている。
そんな気がして作りました。

恥ずかしながら昔、作詞家という職業を目指しており、
詞について、言葉について、伝えるということについて、
めちゃくちゃ真剣に考えていました。

そしていくつか、これだけは守ろうと決めたことがあります。
それは、


・きれいな表現、カッコイイ表現を使わない

・イメージ先行の言葉を使わない

・難しいだけで、すぐに通り過ぎる言葉を使わない

・聞いた人の中に入ってから広がる言葉を探す

・心に何らかのカケラが引っかかる、爪のある詞を書く



……なかなか実践するのは、困難です。
未だにホントに難しいです。
頭を抱えています。



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余談ですが、
上記の詞には曲もついてまして、
デモテープに歌入れをして、とあるプロデューサーさんに送りつけちゃった事があります。
昔ね、昔。大昔。若気の至りで……。
思い出しても赤面だ。

超有名な歌手やタレントさんを抱えるプロダクションの社長さんで、
本物の詞を書ける作詞家を育てたいとおっしゃってました。

もらったお返事の言葉は、今も忘れられません。
カセットテープにメッセージが吹き込まれていたのですが、
こんな事を言ってくださいました。


「あなたのこの詞は、私の心に引っかかりました。
最初のフレーズなど、あなたの言う“爪のある言葉”だと思いますよ。

ただ、この詞ひとつだけでは、
あなたが作詞家としてやっていけるかどうか、私は判断しかねます。
だから、これからもどんどん詞を送ってきてください。

きっとあなたの詞は、また私の心に引っかかってくると思います。
その時に判断します」

……というような内容でした。
これは嬉しかったなぁ。


この“判断”というのは、
私を東京へ呼び寄せて作詞家に育てるべきかどうかっていう意味です。

「あなたが東京に住んでいたら呼び寄せて話してみたいけど、
“今、京都から引っ越してくれば私が世話します”とまでは、
今の段階ではまだ言えません。
何作か作品を見てから、どうするか考えます」

このようなお言葉でした。
まだまだまったく中途半端きわまりない私の詞ゆえ、
プロとしてやっていける実力があるなんて、とても確信できないでしょう。
そりゃ〜当然のことです。

「コイツはぜひ会いたい!」と思っていただけるようなモノは、
私には書けなかったのです。
そのことを、そんな実力なんてないことを、
自分でも嫌というほど自覚していました。
地面に溶けて消えそうなぐらい、自信のない私でした。

でも、もっとケチョンケチョンに言われるだろうと予想していた私にとっては、
これは本当に嬉しいお言葉だったのです。

私は思いました。


呼べないとおっしゃるなら、こちらからお伺いしよう。


じっとしていられない性分の私は、
次の作品を送るなんてじれったくて座っていられなくて、
今まで書いた詞を脇に抱え、東京へ行くことにしました。
そのまま住みついてもいいとさえ思っていました。


じつはこの時、
私は時期をみて東京へ行くつもりだったのです。
というのも、上記のお人とはまた別の女性プロデューサーさんに、
私の作った曲を見ていただくお約束ができていたのです。

まさに今だ! 今、行こう!!
今こそ動かなければ!

とにかくその女性プロデューサーさんにお電話し、
すぐにでもお会いしたいと伝え、東京へ押し掛けて行ったのです。
人生、賭けてみたのです。


とても素晴らしくて有名な作品を世に送り出しておられる、
その女性プロデューサーさんは、
私のデモテープをじっと聴き、
私の詞を真剣に読んでくださいました。

そして、
作品の評価だけでなく、
プロとなればどのような金額が流通するかという金銭的なことや、
そのために必要とされる作品とは何かなど、
いろんな事を丁寧に話してくださいました。

キッチリと見る目をお持ちのお方で、
心から納得できるような厳しいお言葉もくださったし、
現実の世界をピシリと優しく教えてくださいました。

「なかなか難しいものよ、プロは。
あなたが東京に住んでいたら、私のところで働かせてあげてもいいんだけど」

本当にいいお方で、
「使いっ走りのバイトでもいいからここで雇ってください」と私が頼み込めば、
きっと使ってくださったと思います。


上記の詞を送りつけたプロデューサーさんも、
この優しい女性プロデューサーさんも、
「アナタが東京にさえ住んでいれば……」
とおっしゃったんだから、
東京に住もうかと思ったのです、本気で。
そうするほうが、早く夢に近づけるだろうと思いました。

でも、私はそうしなかった。
できなかったのかもしれないけれど。

そうしなかった理由は、
もっと腹の底から覚悟を決めて、もっと本気でやってみたかったから。
たとえ一旦、夢から遠ざかってしまおうとも。

自分の未熟さを痛いほど自覚しながら、
それでもすがりついて行くことも、ひとつの道でした。

でも、違う気がしたのです。今の私が選びたい道は。

技術やテクニックを磨くなら、
本物のプロフェッショナルを目指すなら、
この東京という街で必死にがんばればいい。

だけど私が詞を書きたい理由は、人に何かを伝えたいから。
なのに私という人間には、
その“何か”がまだどこか足りない。
必死になって考え抜いてきたつもりだけど、
やっぱり足りない。

なぜなのか。そんなこと、自分でもわかっていました。
簡単なことです。

私は必死に考えてはきたけれど、
できるだけの努力はしてきたつもりだったけど、
まだ本物の岩にぶつかっていない。
ゴツゴツした岩にぶつかって、
この体が砕け散る覚悟をして、本気で戦おうとは、
まだしていない。

岩の壁に立ちふさがれれば身体ごとぶつかって、
崖があればその向こうを目指して思いっきりジャンプして、
海に出ればこの身ひとつで泳いでゆく。

たとえ砕け散ろうと、
たとえ真っ逆さまに落下しようと、
たとえ波にさらわれようと、
それぐらいの覚悟を持って生きてみたい。

そんな “まさに若僧の雄叫び”を、
この時私は、夕日に向かって思いっきり叫んでしまったわけです。
(心の中でね…)
まるで「青春ドラマシリーズ」みたいでしょ?

バ〜ッカくさくて笑えるけど、
そんなバカな私こそが私の姿なのです。
本気だったんです。

それが出来てから、
やっと “伝える手段を探す” という段階へと進めるのでしょう。
私はまだ、前段階にしか達していなかったのです。
まだ全然、本気で生きていなかったのです。

だから、京都へ帰りました。
帰ったら一から本気でやり直す気でした。

すべての事にぶつかって行こう。
すべての事を自分の糧にしよう。

そう思って、
ディズニーランドでパァッと遊んで、家に帰りました。
いやぁ……この時のディズニーランドは格別でしたねぇ。

そういうわけでして、
最初に書いたプロデューサーさんには結局お会いしなかったのですが、
詞は書いています。
言葉を探し続けています。



京都に帰った日からの話は、
「仮面なしライター・りろ子のどーってことなく楽しいセイカツ」
コーナーへと続きます。


とにかく、
それから私は、もっともっと生きてみました。
ガンガンぶつかって、ボロボロに砕け散って、
その痛みを体に刻み込みました。
想像ではなく、本当の痛みを知りました。

考える時はゼロから本気で考え、
そこに行動がともなって、
初めて人は何かひとつを手に出来るのだと知りました。

裸の自分は恥ずかしくて、
傷ついたり傷つけたりするのがとっても怖いけど、
そんな自分でなければ、
本当に体の奥から生きられないと思うのです。

防備や準備がないぶん、
人まで傷つけて迷惑かけて、
憎まれていることだってきっとあるでしょう。
そんな方には、本当に申し訳ないと思います。
たぶん謝ることだらけだと思います。

でも、まったくキレイなままで生きていくなんて、
無菌室に入って暮らさない限り無理なのは確かなことで、
そこへは入れない自分がイキがっているのです。

そんな日々を歩いていく道の途中で、
体の奥から笑える瞬間に出合うことができれば、
それは素晴らしい人生だと、自分で感じられるのではないでしょうか。

いつか私も、体の奥から笑いたい。
そう願いながら、やっぱり今日もイキがって過ごしています。



2004.3.8




文とミニチュア制作 / 湧月りろ




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